ポリアモリー指南書で語られる「愛」
こんにちは。
ふわぽりー(@FuwaPoly)です。
日本では一般的な一対一の交際や結婚を行う人をモノガミーといいます。
それに対して複数の人との誠実で理解のある交際する人をポリアモリーといいます。
ポリアモリーの指南書などを読んでいても「愛」という単語がよく出てきます。
ちょっと多すぎないっていうくらい愛が語られます。
いろいろ調べてるうちに私の中に「もしかしたらポリアモリー発祥の地(といわれる)アメリカの「LOVE」と日本の「愛」は一致しないんじゃない?」という疑惑を生じてきました。
日本人の「愛」は限定的で崇高な想い
では早速、日本における愛について考えてみましょう。
日本で人に対する愛は「家庭・親族への想いとそれに伴う行動」(以下「家族愛」とします)と言えるのではないでしょうか。
未婚の人は1人の愛する人を見つけ、家族となり生活をともにする。
事実婚を含む結婚では伴侶と愛を築く。
子どもや扶養家族がいる家庭ではそれに対する愛。
「ちょっと極端な解釈じゃない?!」と言われるかもしれませんが、完全に外れてるとも言えないと思うので許してください…。
私も家族愛を否定しません。むしろとても大事で素晴らしいものだと想います。
伴侶や子どもを愛することは幸せな家庭を築く上では欠かせません。
家族愛が素晴らしいものであるのは日本に限られたことではないでしょう。
そして「限定的で崇高な想いこそが愛」という感覚が日本人の感覚に染み込んでいるのでしょう。
ポリアモリー発祥の地アメリカの「愛」
ポリアモリーという考え方は1990年代にアメリカの「ラビングモア」という団体から広まったと言われています。
私自身はアメリカに行ったこともありませんし、せいぜいニュースや書籍など知る程度の知識しかありません。
言語は英語が、宗教はキリストが中心、という程度の認識しかありません。
それを前提にお話を進めていきたいと思います。
アメリカは日本より様々な人種・宗教・思想の人が生活をしていて「人種のるつぼ」とか「サラダボウル」なんて言われます。
私見ですが、アメリカ人って日本人に比べて「I love you(愛してるよ)」と言う機会が多いように感じます。
これは宗教観によるところが大きいのかもしれません。
そこまで詳しいわけではありませんが、「隣人を愛せよ」というのは聞いたことある人も多いのではないでしょうか?
日本で「隣人を愛せよ」と言われても理解はできても「どうしたらいいのかな?」という人が多いのではないでしょうか。
フィクションと現実をごっちゃにするのもナンセンスですが、「I love you」というセリフを聞く機会は邦画よりアメリカ映画の方が圧倒的に多い。
「アメリカは簡単に愛してるっていうんだなあ」なんて思いながら映画を見てたります。
私の感覚ではアメリカのLoveは「大切に思っている」の総称なのではないかと思っています。
もちろん、「愛している」「好き」などの意味を含む場合もあるでしょう。
この辺は言語構造の違いかもしれません。
日本に比べ多様な人種や文化を持つアメリカ(私見です)ではシンプルな構造の英語が主に使われます。
構造がシンプルだからこそ「あなたのことを大切に思っている」ことを「I love you」と表現するのではないかと思います。
だからといって英語のLoveを軽薄な表現や思いだと言いたいのではありません。
英語圏の人は英語圏の人なりに大切な思いをLoveに込めているのでしょう。
ある意味、日本語の愛より「広義の愛」といえるかもしれません。
「愛」という表現をやめてみる
英語を和訳する際にLoveは「愛」「愛している」とされるでしょう。
日本とアメリカの愛・Loveについて考えてみましたが、言語の壁を超えることはできますが、感覚の壁はなかなか超えられないためポリアモリーの指南書にかかれている「愛」という表現が理解しにくいのかもしれません。
先述のとおり日本人には「限定的で崇高な想い」という刷り込みがあるのか「愛」と表現されると身構えてしまいます。
というか、正直、重い!
これは私が「ポリアモリーって大変」って思ったのも「愛」という表現が原因かもしれません。
「自分はポリアモリーだと思っていたけどあの人を愛してないからポリアモリーとは言えない」っていうことになってしまいます。
これはとても残念なことです。
だから日本のポリアモリーには日本に適した表現を使ったほうが良いと思います。
あくまで私見ですが日本人に言葉の重みが大きい順は愛、愛情、好意ではないでしょうか。
では一番重みのある「愛」以外で人に対する良い感情を並べてみましょう。
- 愛情を注ぐ
- 愛情を持って接する
- 好意を抱く
- 好意的に見る
どうでしょうか?
一気に身近になったのではないでしょうか。
とりあえず恋愛感情に限定にしなければ、ペットに愛情を注ぐことは珍しいことではありませんし、学校や会社、どこでもいいのですが好意を抱く人っていませんか?
少なくとも私はポリアモリーで表現される愛とは別に必ずしも「命をかけなかればならないほど大袈裟なもの」でもないし「好きなだけじゃダメ、愛していると思えないとダメ」というような排他的なものではないと考えています。
だから、私はこのブログではいろんな書籍に記されているポリアモリーにおける「愛」を「好意」と表現したいと思います。
だって自分の中のある好意的な気持ちって素敵じゃないですか?
それを大事にすることはポリアモリーに限らず、心に豊かさをもたらしてくれると思っています。
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