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好意のグラデーション。自身の好意を受け入れる

ポリアモリー

こんにちは。
ふわぽりー(@FuwaPoly)です。

以前の投稿愛は日本人には重いで私はブログの中で「好意」ということにしました。

今回はその「好意」について考えてみたいと思います。

好意の対象

以前の投稿で好意を表現として以下のように例をあげてみました。

  • 愛情を注ぐ
  • 愛情を持って接する
  • 好意を抱く
  • 好意的に見る

好意と一言にいってもその対象は恋愛はもちろん、友情だったり親子愛だったりペットだったり。
あるいは自分の好きなことやモノに対しても好意を抱くことがあると思います。

簡単にいうと「好き」っていうことじゃないでしょうか?
好意を「好き」という言葉まで噛み砕くと更に範囲は広くなりますね。

好きな食べ物、好きな色、好きなアーティスト、好きな曲などなど。

一人ひとりが何かしら好きなものを自分の中に抱いています。

こんなことを言うと、

「モノと人を一緒にするのは違うんじゃない?」
「食べ物まで一緒にされても…」

と思う人もいると思います。

なぜ人に対してだけ特別視してしまうのかといえば、やっぱり動物としての生存競争であったり、生活の中で自然と染み付いたヒューマニズムによる考え方かもしれません。

生存競争やヒューマニズムみたいな難しい話はさておきて。

好きな気持ちは誰でも持ってますよね。

私は好きという気持ちをモノ・人などで分けるなくてもいいと思っています。
だからそれを大事にして欲しいと思っています。

たまに見かける話ですが、結婚したから

  • 趣味を辞めた・辞めさされた
  • コレクションを捨てた

というのはとても残念だと思います。

もちろん、金銭的な理由や住居のスペースの問題などである程度は妥協しないといけないところもあるでしょう。
それは当人同士が決めることであって、パートナーや周りがどうのこうの言うことじゃないと思います。

できれば両者が納得する形で継続や変化をもたらすのが良いと思います。

タバコやギャンブルなど、一般的に「良いものでない」とされるものでなければなおさらです。

趣味やコレクションはその人の人生の軌跡ですし、その人の魅力を形成している大事なパーツです。
それらを捨てた、もしくは捨てさせたパートナーは「その人の魅力を捨てた」と同じだと私は思います。

さて、話を人に戻します。

親族だったり友人だったり恋人や配偶者にも、親友や恩人など大切な人がいるでしょう。
私はヤキモチを妬くことはほとんどないのですが、ヤキモチを妬く人の気持ちはわかります。

  • 少しでも好きな人と同じ時間を共有したい
  • 自分の方が優位でありたい
  • 自分の方がパートナーを想っている

と3つほど並べましたが実際はこんな簡単に言葉で表せるものではありません。

でもパートナーが大切にしている人たちもきっとパートナーを大切に思ってくれているでしょう。
いざというときに二人を助けてくれるかもしません。
それらを切り捨ててしまえと言うのは簡単ですが、一度切った縁の回復は本当に難しい。
ましてや不埒な気持ちがない誠意的な好意にある人間関係は宝物です。

だからこそ好意の対象が人であろうとなかろうと大事にして欲しいと思いますし、私は私が好意的に思う人が好きなことやモノを否定的に思ってほしくありません。
よほどのことがない限り理解してみたいと思います。
どんな魅力があるのか、それがこの人をどれだけ魅力的にしてくれているのか、と。

実は線引しにくい好意

好意の対象に続いては好意の深さ、強さなんと言えばいいのでしょうか?
とりあえずレベルと表現することにしますね。

  • ここまではLikeで、ここから先はLove
  • この人はレベル1、この人はもっと好きだからレベル5

好意、好きな気持ちのレベルってゲームのステータスみたいにわかりやすく区別できますか?

私はできないと思います。

人の気持ちはそんな簡単に線を引きや区別できるようなものではなく、グラデーションのようなものだと思っています。
しかもただの平面的なグラデーションではなく、立体上のグラデーションだったりマーブル模様だったりするかもしれません。

グラデーションを描くのは何も好意だけに限ったことではありません。
苦手なタイプの人、気になる仕草、得意な運動。
人の中にある感情は簡単にレベル分けを出来ません。

しかも、そのレベルは次の日に変わってしまうこともあります。
それどころか、ちょっとしたきっかけで瞬間的に変化してしまうこともあります。

そんな「気分や気持ちの変化」は人間なら特別ではなく当たり前のことです。
食べたいモノが変わるのと同じように、気持ちは常にグラデーションのように無段階的変化していくのだと思います。

こんなことをいうと「じゃあ永遠の愛はないのか?!」とおっしゃる人もいるかもしれませんが、永遠の愛についてはまた別の機会に考えたいと思います。

好意を認め、受け入れる

さて、そもそも論です。

配偶者や恋人がいる人が誰かに好意を抱いてしまったらそれは悪いことなのでしょうか?
特定の相手、いわゆるステディがいる人が誰かを「いいな」と思うこと自体が悪なのでしょうか?

日本では既婚者が配偶者以外と性的関係を持つことは不貞行為とされますが、内心の自由が保証されています。

だからその気持ち自体に罪はないというのが私の考えです。
罪に問われるのは行為であって気持ちではありません。

ポリアモリーでない人はその気持ちを不快に思い、誠実さに欠けると感じるかもしれません。
恋人や配偶者に「あなたの他に好きな人ができた」と言われただけで別れる人もいるでしょう。

そんな恋人や配偶者に不快な思いをさせないために他者への好意にブレーキをかけようとします。

なぜブレーキをかけるのでしょうか?

「今の関係を維持したいから」「世間体」などなどいろんな理由があるでしょう。

ポリアモリーでない人(モノガミー)は「これは心の浮気だ」と良心がブレーキをかけてしまうのでしょう。

しかし困ったことに気持ちというのはそんなに簡単にコントロール出来るものではありません。

私は「泣ける映画って聞いたけど絶対泣かないぞ」って決めても号泣してしまうのと同じだと思っています。

思いが加速し、抑えきれずに不貞行為に至ってしまうこともあります。
その行動はポリアモリーに理解のない人(モノガミー)には不道徳でいけない行動です。
ポリアモリーにとっても誠意的な想いでなかれば良いことではありません。

じゃあ、どうすればいいの?って話です。

意見が分かれるところですが、誰にも言わず心の中だけに思いを抑え、目に見える行動をしないのが無難でしょう。
卑怯な言い方かもしれませんが、言わなければ誰もわからないのです。

そもそも胸の内なんて本当は誰もわからないのです。
本人ですらわかっていないこともあります。

話がかなり抽象的になってきたのでちょっと考え方、見方を変えてみます。

そもそも好意を抱くこと、好きということは単純に何かを恨んだり、悪意を持つよりも健全な感情です。
そして好意を抱くということは魅力に気づくことだと私は思っています。

好きなことを語る姿って素敵じゃないですか?
生き生きとしていて楽しそうにして笑顔を見せてくれます。

魅力を感じない人に好意を抱くことはほとんどないでしょう。

配偶者や恋人がいるのに違う誰かの魅力にひかれてしまうのは心が汚れている、不埒と言われます。
それを「ここまでがLike、ここから先はLove」とか意識的にレベル分けをしてブレーキをかけているのでしょう。

もし、あなたがポリアモリーでなければその人の魅力を誰かに伝え素敵な関係になるようにしてあげるのもいいかもしれません。
もし、あなたがポリアモリーで特定の誰かがいないのであれば、誰に咎められることなく好意を暖めてあげればいいと思います。
もし、あなたがポリアモリーで特定の誰かがいるなら、その魅力的な人に自分はポリアモリーの思いを告げ、理解を求めるのも良いでしょう。

私はポリアモリーを推進するわけでもなかれば、理解を強要するつもりありません。
でも、配偶者や恋人がいる人でも「誰かに魅力を感じること」に罪を感じないで欲しい。

好意レベルに関わらず、悪意ではない良い気持ちは無理に抑えないようにして欲しいと思います。
気持ちを整えるってそういうことなんじゃないかと、思います。

どうしても好意を抱いてしまい悩んでしまったら、
魅力的なところを見つけた
と考えてみるといいかもしれません。

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